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【街の文化人を訪ねて】第6回 若潮会 染谷栄さん

染谷先生の絵に対する情熱が、パリ留学挑戦に・・・

若き挑戦者の血気盛んな頃の話を聞かせて頂ければと思います。

(取材日:令和3年6月22日)

 

〇法廷画家 染谷 栄先生 略歴

パリ国立美術大学

先生 大学卒業後、松伏町の中学校の美術の先生(美術専任)として5年間勤務しま した。先輩の横川先生と一人の先生と3人で教えていました。        

◆聞き手 学校辞めてのフランス留学は誰から勧められたのですか?自分の意志で決めたのですか?

◇先生 中学校で美術を教えるための指導要領があります。内容が非常に高度なもので、印象派など出てきたが全く分からなかった。そういうのが分からない状況で教えていてよいのか疑問に思ったのです。例えば、印象派の前からバロックとかロココだとか言っても分からない。始めは休職という形で半年位行きたいと校長先生お願いしました。学校に籍を置き、研修として行ってこい。半年で戻ってこいと…

しかし、いろいろ考え、上手く勉強できるか不安になり学校を辞める事にしました。     

 

〈フランスの様子〉

◇先生 フランスは結構雨が降るんです。フランスの人は傘を持たない。そんな印象の国です。  

学校に入る為入学願書を提出した。留学渡航者として一緒に行った人達は、美術学校に行く為の準備をされていた。現地での生活もどういうものか調べて知っていた… 私は道中色々な事を聞くことが出来ました。       

入学にはデッサン2枚、油絵2枚の受験があった。9月から開講だが、私は4月に行ったので十分時間がありました。その間ヨーロッパの国々を観ようとしました。

周遊チケットで楽に周れたのです。 5月に丁度イタリアにいた時に、政治的な問題でフランス全土でゼネストがあり、すべての活動が停止しました。 電車も飛行機も動かない。 当然のこと3か月位帰れなくなった。

◆聞き手 それは大変なことに

◇先生 腹を決めてヨーロッパを一周することにしました。

幸いイタリアだったからスパゲッティが安かった。それとオランダはレンブラントやゴッホが生まれたところなので行きたいと思い、オランダ行きの電車に乗ったら寝てしまいデンマークまで行ってしまった。スウェーデンでは黒髪が珍しいようで、よく「髪を欲しい」と言われ、切って渡しました。そして一回りして最後オランダに行って帰った。

◆聞き手 今で言うバックパッカーのような旅ですね。若い人の特権ですね。

◇先生 ユースホテルに泊まっていました。ただユースホテルはよく泥棒に入られるので全部ものを持って移動しなければならなかった。 でもお陰で、いい風景をみられました。

◆聞き手 お話伺っていると楽しそうですが…、不安や、言葉の不自由さはあったのではありませんか?イギリスは英語が通じるがヨーロッパの他国は違いますよね。

◇先生 言葉は全然わからなかったけど、結構大丈夫でした。                              

イタリアに行った時駅についてレストランに入ったがメニューが全然わからなかった。 イカの輪切りが美味しいとの話を聞いていたので、スケッチブックにイカの絵を描いてお店の人に見せたら、大きな皿に美味しいイカの料理が出てきた。   そして、お金はいらないと言われた。 

絵を勉強している者にはタダでいいと言われた。イカの絵で十分と言われた。

しっかり描けばよかったと思いました。 国が違うとずいぶん違うなと感じました。 本当にイタリアが好きになった。

◆聞き手 芸術に対する理解者が多いのでしょうね。イタリアとかフランスとか芸術文化が発展したのがよくわかりますね フランスで3年いたのですか?              

◇先生 学校は2年間でした。学校で教わる先生を決めなければならない。

そこで、私はマチスの弟子だった人が教授をやっていたので、その人につこうと 思って入学の手続きを取りました。でも、ゼネストにより学校が大きく変わってしまった。学生たちが騒いで改革を要求することでどんどん良くなっていく、そういう時代だった。学生が主導権を握る時代。 

日本でも学生運動時代がありました。美術大学も国立だったので教授達も制限をされて人が変わり、結局入りたい教室へ入れず、別の人になってしまいました。

美術学校での生活は、朝早くから授業があり、お昼休みが2時間ぐらいあったのでその時間に語学教室へ行っていた。語学学校は食事が安いのでそこで食べていた。

言葉も勉強できるし、食事も安かった。そういう暮らしをしていた。

そこでいろんな人と知り合いができた。当然皆外国人でした。ベトナムとか、韓国とか中国人もいた。植民地の関係でアフリカの人はすでにフランス語がしゃべれる。

そういう人はすぐに仕事に就ける。道路掃除とか。黒人に対する恐怖心はなくなりましたね。

 

聞き手 青春時代にそういう場にいたことはいい経験ですよね。          

◇先生 こっちが望んだことではないですが、望んでもできないような経験ができまた。フランスはワインなど飲み物が豊富ですが、高価な所は一度も入ったことはない。バゲットを朝買いに行ってぼりぼり帰りに食べた。休みの日は郊外に出かけた。ナポレオンとジョセフィーヌが暮らしたお城があった。そのお城も描きました。

車を買って郊外に乗って出かけていた。

日本で免許所持してなかったので、フランスで免許を取った。

免許は先生が自宅まで来てくれました。日本は教習所に行くが、フランスは個人教授だった。取得し現地の高速道路も走りました。日本ではまだまだ高速道路がそんなに無かった時代です。勉強の為の留学ですがそれ以外に沢山興味深い事が沢山有り本当にいい経験になりました。

 

染谷栄先生にはお忙しい中、長時間に渡り取材に応じて頂き本当に有難うございました。夢と希望を胸にひとり異国の地に渡り、絵の勉強に挑戦されました。

グローバル化の現在と違い、当時の状況を考えると簡単な事では無かったと思います。若さと絵を描くことへの情熱が行動の原動力なったと思いました。 異国の地での活動の思い出の一端を、楽しかった事としてゆっくりとした口調で語って頂きましたが、過去の永い時間がすべてを熟成させ素晴らしい思い出になったのだと思いました。

【インタビューと記事 文化協会役員 藤岡記】

 

 

◇パリ国立美術大学〈ボザール〉とはこんな所です。

パリ国立美術大学〈ボザール〉は1648年、ルイ14世の要請でが美術学校を設立した。

1819年に、名称を国立美術学校(エコール・ナシオナル・シュペリウール・デ・ボザール)に改称。

カリキュラムは画家と彫刻家育成の「絵と彫刻アカデミー」

今日その名を残す有名な芸術家の多くがここで訓練され、エドガー・ドガ、ウジェーヌ・ドラクロワ、クロード・モネ、ギュスターヴ・モロー、ピエール=オーギュスト・ルノワール、ジョルジュ・スーラ、アルフレッド・シスレーなどの名が挙げられる。

◇パリ ル・サロン展の会場