「街の文化人を訪ねて」カテゴリーアーカイブ

【街の文化人を訪ねて】第12回 俳人・音楽家 戸辺喜美江さん

俳句・合唱・書道・菊作り・野菜作りなど、幅広い分野に造詣の深い戸辺喜美江先生に、今後の活動などお話を伺いました。

戸辺先生のご自宅にて

 

〇俳句への思い

松伏俳句会は昭和40年後半から町の有志で会を結成して、月一回の句会で勉強し合いました。

赤岩公民館の俳句講座を依頼されて俳句会(会報まつかぜ)を発行しました。後に松伏俳句会と合併し、現在に至っております。しかし、会員の高齢化などもあり、2020年3月/終刊記念号を以って休会となりました。

野田市の句会「雑草」同人としての活動は続けており、2022年3月に同人誌最新号が刊行されました。

2000年に戸辺喜美江句集「色~地球の詠唱~1(読み:しき~ほしのうた~1)」出版、2007年には第二集となる「色~地球の詠唱~2(読み:しき~ほしのうた~2)」を出版。今後、集大成として第三集を出版したいと思っています。

戸辺先生の句集等

 

〇合唱への思い

音楽の町・松伏を目指した1989年に「はつらつ合唱団」が結成され、以来月2回の合唱指導をしております。

2018年4月には、エローラホールにて30周年記念演奏会を開催。

楽しい企画盛り沢山、大盛況でした。毎年、埼玉筑波病院での歌の訪問も、皆さん心待ちにされているようでした。

 

〇書道への思い

自宅での書道教室は、子供から大人まで多くの人が通い、特に子供たちの書き初めには力を注いでおりました。自分自身は、今後共もう少し深く極めたいと思っています。

 

〇菊作り・畑作りに集う

菊作りでは、役場、エローラ、緑の丘公園などで展示を行い、優秀賞も何度か頂きました。

現在は会員も少なくなり新たな入会者もなく、昨年解散となりました。それでも春になると気の合った仲間たちとの畑作りは、今からとても楽しみです。

 

〇これから目指したい思い

 ・趣味の集大成を目指そうと思っています。

 ・今まで同様、いつまでも皆さんと仲良く楽しく生きて行きたい。

 ・誠実に生き、いつも広い目で物事を観て行こうと思います。

 ・自分も皆さんも“いいなあ”と思うことを沢山して行きたい。

 ・自宅二階に天文台を作って、心ゆくまで星座を見たいですね。

 ・皆さんとご一緒に、町の文化活動を盛り上げて行きたいです。

  

〇インタビュー後記

「さくらさくら八十路軽々超えていく」

八十路を軽々超える・・・と読まれたご自身の句のままに、ピースボートで世界を巡り、多くの人と出会い、分け隔てなく広い心を持って人との繋がりを大切にされて来られた戸辺先生。

これからも、さらに挑戦し続けることを楽しんでおられるお姿を見せて頂きました。

貴重なお話の中にもさりげなく歌を交えるなど、楽しいひとときをありがとうございました。

【インタビューと記事 文化協会役員 西野記】

戸辺先生のご自宅にて

【街の文化人を訪ねて】第11回 松伏町書道連盟前会長 石嶋利夫さん

 町役場会議室にて松伏町書道連盟前会長の石嶋利夫さんからお話を伺いました。  

       (取材日:令和4年1月17日(木)、聞き手:現会長 増田等)

写真1:町長応接室前の石嶋さんの作品前にて

〇書道を習い始めたきっかけは。

 25年ぐらい前に埼玉県立松伏高校の文化祭に出かけた時、校舎の中庭で書道部員の書道パフォーマンスを見て、書道をやってみたいと思ったのがきっかけです。

松伏高校の書道部の顧問の春日部在住の関根鳴城先生にお願いして、書道サークル「蛙鳴会(けいめいかい)」を始めました。外前野記念会館「ハーモニー」を会場にして、24年ほど続いています。始めたころは会員も17名いましたが、少しづつ減ってきています。

 現在は書作6段です。6段になるまで10年ほどかかりました。メンバーの中には6段、7段の方もおられます。

 関根鳴城先生はすばらしい先生で、毎日新聞社の書道作品の専属の審査員もされておられたと記憶しています。書だけではなく、印の彫り方も教えて頂き、自分で手彫りした印を今も作品に使っています。

 10年ぐらい前に転勤となりまして、後任が現在の南暉青先生です。

  

〇書道連盟の歴史についてお話しいただけますか。

 書道サークル「蛙鳴会(けいめいかい)」立ち上がりとほぼ時を同じくして、書道連盟ができました。

 始めたころは7団体ありました。初代会長が斉藤道子先生で、続いて池上よしゑ先生、斎藤とし子先生、長柄志げる先生、中條勝子先生と続き私が6代目で昨年まで務めさせて頂きました。

 現在は、中條先生の「中條書道教室」と「蛙鳴会(けいめいかい)」の2団体となっています。新しく参加される団体が加わっていただくことを願っています。

 町民文化祭では、メンバーの中で男性が一人だけでした。会場づくり、後片付けなどをいつも中心に行っていました。頼られる存在だったかと思います。

写真2:2019年11月 町民文化祭書道連盟ブースにて

  

〇思い出深い作品ありますか。

 日常生活の中で、目的をもって何か役立たせたいと思い立ち、「千字」を個人的に習得して、全文字作品にして末代まで残したいと考えています。その一部となる最近の作品を持ってきました(写真3)。腰を痛める前の直近の作品です。何とか完成したいと思っています。

 また、10年ぐらい前に「般若心経」の経文の写経を完成させました。昨年、新築した家に、額に入れて飾ってあります(写真4)。

写真3:作成中の「千字」の一部
写真4:新居に飾った「般若心経」

〇今後の抱負をお聞かせください。

 ワープロの時代にあって、自筆の筆での作品作りには価値があると思います。年賀状も筆で書いたものをお送りしたいと考えています。

  

〇これから、書を始められたい方へのメッセージをお願いします。

  固く考えないで、自分なりの良さを「書」に出せれば良いように思います。

 参加をお待ちしています。

  

【インタビューと記事 文化協会役員 増田 等】

【街の文化人を訪ねて】第10回 音楽家 河本浩子さん

過去、ふうしゃにて取材をおこなった河本浩子さんに現在の様子を伺いました。

(取材日:令和3年12月9日(木))

〇略歴

1934年 岡山県出身

1952年 岡山大学にて音楽と英語を学ぶ
     大学進学に当たり、専攻を迷っていたが自己流で弾いていた
     ピアノが好きで教育学部の作曲科に入学した。

1956年 岡山県内で教諭となる

1959年 結婚

1965年 埼玉県春日部市の中学校において音楽と英語を担当
     大学卒業後に音楽の教師となり、夫の埼玉異動に伴い、
     一緒に旧庄和町の中学校赴任を経て、松伏町立松伏中学校の
     音楽教師となった。

    校長の推薦により、文部省の研修旅行としてヨーロッパへ派遣

1980年 松伏中学校の教諭

1986年 松伏第二中学校の校歌を作曲
     校歌制定で曲付けを担当。作曲家の山田耕作先生を思い出し、
     旋律線を大事にし、歌詞を何度も読み返し、言葉のリズムと
     アクセントを重点に作曲した。
     今でも生徒たちから歌いやすい校歌だと評価されている。

1988年 松伏町初の合唱団「フローラ松伏」を結成
     1988年開催のさいたま博覧会(熊谷市)において、
     県内94市町村歌の中で松伏の歌を披露することとなり、
     松伏町最初の合唱団フローラ松伏を19名で急遽結成。
     さいたま博覧会では、コンクール形式で町の歌ともう1曲披露した。
     急遽編成した素人的な合唱団であったが、ソコソコの成績を
     得ることが出来た。
     博覧会終了後も合唱団フローラは存続し、指揮と指導を続けた。

1989年 エローラ竣工の記念式典において、ピアノで「君が代」を演奏
     ベーゼンドルファーの最初の奏者となる。

     松伏第二中学校への赴任、博覧会への参加、田園ホール・エローラの
     竣工が重なり、松伏町で音楽との関わりが強くなった。
 

1992年 退職

   

〇現在の活動

・お琴愛好会

・松伏町のボランティア
  統合失調症の方達の社会復帰支援

・歌声サロン
  福祉施設での歌声サロン
  一般の方50人前後のサロン

・お茶サークル

・喫茶ボランティア

・松伏町文化協会役員

・松伏町民文化祭の総合司会等

第44回町民文化祭にて

 〇今後の活動について

 自分で歌いたい歌を心で歌う、これが楽しみです。また、ボランティアで統合失調症の方の支援、趣味のヘルシークッキングやお琴サークルを続けていきたいです。

 

〇インタビュー後記

いつも笑顔を絶やさず明るい河本先生。

これからもお身体を大切にコーラスやお琴演奏でご活躍ください。

【インタビューと記事 文化協会役員 伊藤多佳子記】

【町の文化人を訪ねて】第9回 日本料理・割烹 石塚家

 

過去「ふうしゃ」にて取材をおこなった石塚家さんへ現在の様子を伺いに取材させていただきました。(取材日 令和3年10月19日)

【石塚家について】

日本料理・割烹「石塚家」創業は明治30年頃。現在は創業から120~130年程。
和風レストラン「以志津香」を併営している。

  

〇新型コロナウイルスの影響について

大打撃でしたが、お客さんのことを考え石塚家はお店を閉めずにお店を続けていました。

また、コロナでお客さんに応援されてることをつくづく感じました。

役場が飲食店の応援クーポンを作ってくれたり、石塚家がつぶれないように宴会で食べに行こう等、応援していただき、今までもお客さんは大事だと思っていたがコロナ禍になり、それが身に染みて感じました。

 

〇これから先の展望について 

【ご主人】

懐石料理を大事にしていきたいです。懐石は日本料理の根幹であり、料理人が工夫して一生懸命表現する基本的なものです。

自分の創意工夫を入れられるから自分は懐石が作っていて楽しいと感じます。

うなぎを大事にしながらも懐石料理を大事にしていきたいです。

 

【女将さん】

宴会場として、手作りの美味しい料理をいつでも提供できる料理屋として、ずっと続けていきたいと考えています。

石塚家がなくなると困ってしまうというお声もいただき、ありがたくうれしい限りです。

皆が集まって会合して、楽しく食べていただける、そういう場所でありたいと思っています。そのためにも、このままの体制をずっと残していけたらと願っています。

 

貴重な時間をいただきました事にお礼を申し上げ、石塚家さんのご健勝と今後のご活躍を祈念します。

 

<インタビューと記事 文化協会役員 青木記>

 

 

〇過去の「ふうしゃ」掲載記事

平成8年11月10日発行 ふうしゃ第1号 文化の発振地より

この度、松伏町文化協会では町民へのPRの一環と致しまして、本年から広報誌を作ることになりました。

その中のコーナーに、「松伏町の文化の発振地」という特集を組んで、町内のお店の紹介をさせて頂きます。第1回目は川魚料理の石塚家さんです。

【創業はいつですか】

明治三十年くらいです。

初代の人は酒屋をしておりましたが、前を流れる古利根川は、なまずや鯉、うなぎが沢山捕れまして、それを天ぷらに揚げたり、あらいを作って出しましたら、けっこう売れまして、酒と一緒に売ったのが始まりです。

それから座敷が欲しいと言う事になり八畳三間の宴会場を作りました。今は私の長男で四代目になりますが、息子と相談しながら店を新築し現在にいたっております。

【利用客はどの様な人ですか】

ゴルフが盛んになってから、野田のゴルフ場に来たお客が良く来てくれました。

その中にけっこう有名な方も見えてくれましたね。キッコーマンの方も大勢きてくれました。地元の方は昔から結婚式に盛んに利用して頂いております。

今の様に友人や知人が多数出席する結婚式でなく、親戚や身内が参加するだけでしたので八畳三間でみんな入りましたよ。

現在では結婚式もそうですが、七五三のお祝いや、ご法事にも利用いただいております。又、レストランをご利用してくださるお客さんも多く、ありがたく思っています。

【街の文化人を訪ねて】第7回 松伏町ダンス連盟会長 舞踊家 伊藤 多佳子さん

〇略歴

・東京都大田区出身

・11歳より、体質改善の為バレエを始める。

・幼稚園教諭を目指していたが、付属高校3年生の折ミヤキバレエ団「ジゼル」全幕公演に出演し、バレエの世界に入る。

・1992年 ARAD取得(英国ロイヤル・アカデミー・オブ・ダンシング)

・1994年 松伏町民となる。

・2000年10月 バレエサークルをエローラにて始める。

・2002年 松伏町文化協会に入会。
       サークル名が「伊藤多佳子クラシック・バレエ・クラス」となる。

・2006年 松伏大人のバレエサークル講師。

・2009年 ダンス連盟 会長就任。

・2011年 日本バレエ協会関東支部 埼玉ブロック公演「バレエファンタジー」
       オープニング作品振付「ハーモニー」

・2013年 越谷イオンレイクタウンmoriカルチャースクール内講師。

・2018年 保育士の資格を取得。

・2021年4月より 保育士として勤務。

〇活動
 ・(公社)日本バレエ協会関東支部埼玉ブロック 運営委員
 ・松伏町文化協会理事
 ・松伏町ダンス連盟会長  
   50名の生徒を抱えて松伏町内・越谷レイクタウンにて指導を行っている。

〇伊藤多佳子クラシック・バレエ・クラスについて

○「伊藤多佳子クラシック・バレエ・クラスの考え」
 クラシックバレエの基礎から一人一人丁寧に指導しております。
  
 レッスンやリハーサルを重ねていく中で、観る人の心を震わせる、美しい踊りや身体の使い方を教えております。

 また、日々の生活の中で大切な、「挨拶」や「礼儀」「立ち振舞い」「家族への感謝」等も、子供達がこの先バレエを離れ、どの道に進んだとしても恥ずかしくない人間になるよう、全身全霊をかけて指導しております。

 ○「活動状況」
  ・2年毎に発表会を開催
   2006年 3月 「くるみ割り人形」
   2008年 12月「眠れる森の美女」
   2010年 4月 「コッペリア」
   2012年 5月 「くるみ割り人形」
   2014年 5月 「四季」
   2016年 5月 「眠れる森の美女」
   2018年 2月 「パ・キータ」
   2021年 5月 「マーチ」

  ・「松伏町民文化祭」へ毎年出演

  ・日本バレエ協会関東支部埼玉ブロック公演「バレエファンタジー」に出演

 ○「レッスン日」(クラス分けあり)
  毎週 火曜18時~21時
     木曜18時~21時
     金曜19時~21時
     土曜10時~13時
   
  場所 松伏町中央公民館 田園ホール・エローラ
     外前野会館ハーモニー
     多世代交流学習館メロディー

 ○「連絡先」
  048-992-0847 又は 090-5586-1669(伊藤)

〇今後の展望
現在指導している子ども達をバレエ協会の公演に出演させたい。

バレエの指導を通して、バレエの上達のみではなく、自分らしさを失わず、礼儀正しい、心身ともに素敵な女性を育ててゆきたいと思っている。

また、違ったジャンルの踊りに挑戦し、踊りの幅を広げてゆきたい。

 

〇インタビュー後記
ぶしつけな質問にも、細々と明るくお答え頂き、楽しい時間を過ごすことが出来、貴重なお時間を本当にありがとうございました。

【インタビューと記事 文化協会役員 河本浩子】 

〇過去の「ふうしゃ」記事紹介

平成19年3月1日発行 ふうしゃ第17号 リレー訪問 うちのお師匠さんより

私達がレッスンしているバレエ・クラスは、21年前(現在より)からスタートし、3歳から大人まで50名近い仲間がいます。

指導してくださるのは、伊藤多佳子先生です。(社)日本バレエ協会会員で、ミヤキ・バレエ団出身です。色々なバレエ団の公演、大学の公開講座なども経験しています。

先生は「クラス毎に素敵な衣装をつけ、大勢のお客様の前で踊りきった皆の顔は、キラキラと輝いていて、そんな姿を見ると毎回胸が熱くなって感動します」と言ってくれます。私たちも先生のうれしそうな顔がとても大好きです。

先生のコメント=クラシックバレエは総合芸術です。厳しいレッスンの中にも、踊ることの楽しさや嬉しさが分かり、将来バレエだけでなく、自分の夢に向かって羽ばたいていく子供たちが一人でも多く育つよう願って止みません。

【街の文化人を訪ねて】第6回 若潮会 染谷栄さん

染谷先生の絵に対する情熱が、パリ留学挑戦に・・・

若き挑戦者の血気盛んな頃の話を聞かせて頂ければと思います。

(取材日:令和3年6月22日)

 

〇法廷画家 染谷 栄先生 略歴

パリ国立美術大学

先生 大学卒業後、松伏町の中学校の美術の先生(美術専任)として5年間勤務しま した。先輩の横川先生と一人の先生と3人で教えていました。        

◆聞き手 学校辞めてのフランス留学は誰から勧められたのですか?自分の意志で決めたのですか?

◇先生 中学校で美術を教えるための指導要領があります。内容が非常に高度なもので、印象派など出てきたが全く分からなかった。そういうのが分からない状況で教えていてよいのか疑問に思ったのです。例えば、印象派の前からバロックとかロココだとか言っても分からない。始めは休職という形で半年位行きたいと校長先生お願いしました。学校に籍を置き、研修として行ってこい。半年で戻ってこいと…

しかし、いろいろ考え、上手く勉強できるか不安になり学校を辞める事にしました。     

 

〈フランスの様子〉

◇先生 フランスは結構雨が降るんです。フランスの人は傘を持たない。そんな印象の国です。  

学校に入る為入学願書を提出した。留学渡航者として一緒に行った人達は、美術学校に行く為の準備をされていた。現地での生活もどういうものか調べて知っていた… 私は道中色々な事を聞くことが出来ました。       

入学にはデッサン2枚、油絵2枚の受験があった。9月から開講だが、私は4月に行ったので十分時間がありました。その間ヨーロッパの国々を観ようとしました。

周遊チケットで楽に周れたのです。 5月に丁度イタリアにいた時に、政治的な問題でフランス全土でゼネストがあり、すべての活動が停止しました。 電車も飛行機も動かない。 当然のこと3か月位帰れなくなった。

◆聞き手 それは大変なことに

◇先生 腹を決めてヨーロッパを一周することにしました。

幸いイタリアだったからスパゲッティが安かった。それとオランダはレンブラントやゴッホが生まれたところなので行きたいと思い、オランダ行きの電車に乗ったら寝てしまいデンマークまで行ってしまった。スウェーデンでは黒髪が珍しいようで、よく「髪を欲しい」と言われ、切って渡しました。そして一回りして最後オランダに行って帰った。

◆聞き手 今で言うバックパッカーのような旅ですね。若い人の特権ですね。

◇先生 ユースホテルに泊まっていました。ただユースホテルはよく泥棒に入られるので全部ものを持って移動しなければならなかった。 でもお陰で、いい風景をみられました。

◆聞き手 お話伺っていると楽しそうですが…、不安や、言葉の不自由さはあったのではありませんか?イギリスは英語が通じるがヨーロッパの他国は違いますよね。

◇先生 言葉は全然わからなかったけど、結構大丈夫でした。                              

イタリアに行った時駅についてレストランに入ったがメニューが全然わからなかった。 イカの輪切りが美味しいとの話を聞いていたので、スケッチブックにイカの絵を描いてお店の人に見せたら、大きな皿に美味しいイカの料理が出てきた。   そして、お金はいらないと言われた。 

絵を勉強している者にはタダでいいと言われた。イカの絵で十分と言われた。

しっかり描けばよかったと思いました。 国が違うとずいぶん違うなと感じました。 本当にイタリアが好きになった。

◆聞き手 芸術に対する理解者が多いのでしょうね。イタリアとかフランスとか芸術文化が発展したのがよくわかりますね フランスで3年いたのですか?              

◇先生 学校は2年間でした。学校で教わる先生を決めなければならない。

そこで、私はマチスの弟子だった人が教授をやっていたので、その人につこうと 思って入学の手続きを取りました。でも、ゼネストにより学校が大きく変わってしまった。学生たちが騒いで改革を要求することでどんどん良くなっていく、そういう時代だった。学生が主導権を握る時代。 

日本でも学生運動時代がありました。美術大学も国立だったので教授達も制限をされて人が変わり、結局入りたい教室へ入れず、別の人になってしまいました。

美術学校での生活は、朝早くから授業があり、お昼休みが2時間ぐらいあったのでその時間に語学教室へ行っていた。語学学校は食事が安いのでそこで食べていた。

言葉も勉強できるし、食事も安かった。そういう暮らしをしていた。

そこでいろんな人と知り合いができた。当然皆外国人でした。ベトナムとか、韓国とか中国人もいた。植民地の関係でアフリカの人はすでにフランス語がしゃべれる。

そういう人はすぐに仕事に就ける。道路掃除とか。黒人に対する恐怖心はなくなりましたね。

 

聞き手 青春時代にそういう場にいたことはいい経験ですよね。          

◇先生 こっちが望んだことではないですが、望んでもできないような経験ができまた。フランスはワインなど飲み物が豊富ですが、高価な所は一度も入ったことはない。バゲットを朝買いに行ってぼりぼり帰りに食べた。休みの日は郊外に出かけた。ナポレオンとジョセフィーヌが暮らしたお城があった。そのお城も描きました。

車を買って郊外に乗って出かけていた。

日本で免許所持してなかったので、フランスで免許を取った。

免許は先生が自宅まで来てくれました。日本は教習所に行くが、フランスは個人教授だった。取得し現地の高速道路も走りました。日本ではまだまだ高速道路がそんなに無かった時代です。勉強の為の留学ですがそれ以外に沢山興味深い事が沢山有り本当にいい経験になりました。

 

染谷栄先生にはお忙しい中、長時間に渡り取材に応じて頂き本当に有難うございました。夢と希望を胸にひとり異国の地に渡り、絵の勉強に挑戦されました。

グローバル化の現在と違い、当時の状況を考えると簡単な事では無かったと思います。若さと絵を描くことへの情熱が行動の原動力なったと思いました。 異国の地での活動の思い出の一端を、楽しかった事としてゆっくりとした口調で語って頂きましたが、過去の永い時間がすべてを熟成させ素晴らしい思い出になったのだと思いました。

【インタビューと記事 文化協会役員 藤岡記】

 

 

◇パリ国立美術大学〈ボザール〉とはこんな所です。

パリ国立美術大学〈ボザール〉は1648年、ルイ14世の要請でが美術学校を設立した。

1819年に、名称を国立美術学校(エコール・ナシオナル・シュペリウール・デ・ボザール)に改称。

カリキュラムは画家と彫刻家育成の「絵と彫刻アカデミー」

今日その名を残す有名な芸術家の多くがここで訓練され、エドガー・ドガ、ウジェーヌ・ドラクロワ、クロード・モネ、ギュスターヴ・モロー、ピエール=オーギュスト・ルノワール、ジョルジュ・スーラ、アルフレッド・シスレーなどの名が挙げられる。

◇パリ ル・サロン展の会場

【街の文化人を訪ねて】 第5回 松伏町カラオケ連合会 会長 青木昇さん 

 過去、松伏町文化協会機関紙「ふうしゃ」にて掲載したカラオケ連合会 青木昇さんの記事を紹介します。

 

平成25年3月1日発行 ふうしゃ第23号 リレー訪問 うちのお師匠さん

 青木昇さんは、松伏町カラオケ連合会が結成された当初から役員を務め、平成二十三年よりカラオケ連合会の会長に推薦され就任しました。

 私達の田中カラオケ会のリーダーとして、カラオケの歌い方をいろいろとアドバイスしてくれます。また、会員の面倒を良くみてくれますし、会場とカラオケ装置等を提供してくれています。
 
 カラオケ連合会の会長としてだけでなく、松伏町の文化協会の役員も長年務めています。そんな青木昇さんを私達は良きリーダーとして信頼し尊敬をしています。
 
 これからも田中カラオケ会のため、松伏町カラオケ連合会のためにご尽力をお願いします。

浜野 きよ子

〇カラオケ連合会の近況報告(令和3年6月現在)

 カラオケ連合会は新型コロナウイルス感染症の感染拡大により、支部での活動や、カラオケ連合大会等を中止しており、長い期間活動ができておりませんが、個人個人で活動をして頑張っております。

 新型コロナウイルス感染状況が収束しましたら、また活動を再開しますので、カラオケ連合会へのご参加をお待ちしております。

【記事 文化協会役員 笠井記】

【街の文化人を訪ねて】 第4回 松伏町民謡民舞連合会長 吉田旭章(昇次)さん 

「民謡・三味線」人生56年の歩み

〇略歴

  • 松伏町出身
  • 昭和40年頃 石井てる珠師、柴田隆章師に弟子入りし、民謡、三味線指導を受ける
  • 昭和42年頃 早坂光枝師にも民謡、三味線指導を受ける
  • 昭和47年  松伏町民謡民舞連合会設立に貢献され、以後連合大会実行委員長
           及び連合会長を永年にわたり務め、現在に至る
  • 昭和47年  日本郷土民謡協会 柴田隆章師より名取 旭章 取得
  • 昭和54年  日本郷土民謡協会より公認教師を授与される
  • 昭和57年  三地区民謡民舞連合会(三郷市、吉川市、松伏町)の設立に貢献さ  
           れ大会実行委員長や大会会長を永年にわたり務める
  • 昭和57年  日本郷土民謡協会 総師範 取得
  • 平成5年   日本郷土民謡協会 公認教授となる
  • 平成6年   日本郷土民謡協会 名誉教授となる
  • 平成23年  一般財団法人日本郷土民謡協会より功労賞を授与される
  • 平成23年  一般財団法人日本郷土民謡協会柴田隆章連合会長就任 現在に至る  

 

〇活動状況

昭和45年に地元自治会の関場集会所にて関場民謡会を発足。

当時は40名以上の会員で週1回稽古をして、松伏町民謡民舞連合会を設立し、連合大会を小学校の体育館を借りて行ってきた。平成元年度に町の施設エローラが建築された以降は毎年連合大会を行い、今年で51年を迎えた。

又、昭和57年に、三地区連合大会(三郷市、吉川市、松伏町)の第1回大会を千葉県流山市文化会館を借りて行った。以降は各市町に建築された施設で会場を持ち回りで実施しております。

現在の稽古場所は松伏会館に変更して行っております。

各大会において、個人コンクールや合唱コンクールなどで好成績を収め、特に、日本郷土民謡協会第10回春季大会(日大講堂)合唱の部で準優勝致しました。

又、松伏町健康大学の講師として、民謡の部で指導したり、なのはなの里にて慰問活動も行っております。

 

〇今後の活動

会員の皆様の為に民謡民舞は日本文化の伝統でもあり、若い人たちに継承して参りたいと思いますが、最近は、多趣味等により民謡人口が減少している中、民謡民舞が消えないように、三地区民謡民舞連合会も同様に続けて参りたいと思います。

 

〇稽古日

毎週 火曜日 民謡  午後7時~9時
   木曜日 三味線 同上

場所 松伏会館

連絡先 048-991-6839

指導者 吉田旭章

貴重なお時間をいただきました事にお礼を申し上げ、吉田旭章連合会長のご健勝と今後のご活躍を祈念します。

【インタビューと記事 文化協会役員 山﨑記】

〇過去の記事

平成14年11月1日発行「ふうしゃ第13号」 リレー訪問うちのお師匠さん より

私達のサークルは、民謡クラブの旭章会です。昭和四十五年から松伏出身の吉田旭章先生にご指導戴き今年三十二年を迎えます。

発足当時は、四十名以上の会員で、週一回、近くの集会所をお借りしての稽古を重ねて参りました。当時の民謡大会には、小学校の体育館をお借りして出場。

又、東京武道館で行われる全国大会にも数回にわたり出場して好成績を収めました。三郷・吉川・松伏と三地区大会も毎年行っております。会場は回り番です。
松伏では、エローラの会場をお借りしております。私達のお稽古は、松伏会館をお借りしております。

旭章先生は、昭和57年に日本郷土民謡協会公認教師を授与され、さらに、平成五年には名誉教授となられ現在に至っております。

また先生は、松伏町健康大学の講師として民謡部で活躍され、生徒さんが百人近くおります。月に一回の活動ですから大勢の方が楽しみにしております。

私達が多くの大会で好成績を収めることができたのも、先生の暖かいご指導の賜物と深く感謝しております。

先生は、風邪を引かれた時や、多少具合が悪いくらいでは、決して休んだりすることのないほど熱心です。

私たちがこんなに長く民謡を唄い続けてこられたのは、そんな先生のいつもの一言_「声を出すことは健康に一番良い、お腹から大きな声を出すことだ」があるからです。私たちも、健康を維持しながら民謡を続けていきたいと思います。

【街の文化人を訪ねて】 第3回 民謡歌手 秋野恵子さん

「この道60年 ~丸山の狸ばなし10年~」

 過去「ふうしゃ」にて取材をおこなった秋野恵子さんへ現在の様子を伺いに取材させていただきました。

金杉小学校公演会
2月1日に行われた金杉小学校での公演会にて

〇現在の活動

 現在はご自宅の稽古場(毎週水曜日)、多世代交流学習館(第1、第3金曜日)、こしがや能楽堂(第2、第4木曜日)で民謡や端唄を教えられています。

 また、最近では2月1日(月)に金杉小学校にて、公演を行いました。この公演は毎年、3年生を対象に行われています。

<公演を聴いた児童からの感想>
・秋野恵子先生の声にすごく感げきしました。
・私は「丸山のたぬきばなし」をきいてとてもすきになりました。色々な音が重なっていてとてもすてきでした。

  

〇今後の活動

 3月30日(火)午前11時20分から、NHKFM放送「邦楽のひととき」に出演し、端唄が全国放送されます。

 また、秋野先生が民謡の道へ入ってから60周年となる来年(令和4年)には、秋頃に多世代交流学習館で記念の公演を行う予定です。

  

〇取材をおこなって

 秋野先生は10代の頃から民謡歌手の早坂光枝さんの弟子として修業し、日本全国の公演やテレビ出演時に一緒に演奏したりお囃子を担当したりしながら勉強を続けてプロになられたそうです。
 
 そして近年には民謡だけでなく端唄の世界でも活躍され、毎年NHKの邦楽番組に招かれ出演されています。

 また、依頼があれば老人ホーム等にも赴いて活動をされています。
 
 取材の中で、秋野先生は、歌舞伎座などを多くの舞台を観られた経験や、日本舞踊から良い姿勢の取り方を学んだこと、そのような経験もみんな唄につながっていると仰っておりました。「色々な方の力があったから今の自分がある。」と周りへの感謝を述べられていたのが印象的でした。

 秋野先生のそのような姿勢があったからこそ素晴らしいご活躍をされてきたのだと感じました。

 貴重な時間をいただきました事にお礼を申し上げ、秋野恵子さんのご健勝と今後のご活躍を祈念します。

【インタビューと記事 文化協会役員 上野記】

〇過去の「ふうしゃ」掲載記事

平成26年3月1日発行 ふうしゃ第24号 心・技・体より

秋野さんが民謡や舞踊の道に進まれた動機は何でしょうか。

もともと唄や踊りが大好きだったお婆ちゃんの感化を受け、お婆ちゃんの勧めと自分自身が小さい時から好きだった事で、十一才で石井照珠師と柴田隆章師に弟子入りし民謡を習い始めました。

後に早坂光枝師に入門し、三味線、唄の指導、薫陶を受け昭和五十年に「シャンシャン馬道中唄」でキングレコードからデビューし、キング専属歌手となりました。

【街の文化人を訪ねて】 第2回 民謡民舞連合会 舞踊指導者 坂東 力喜和(今井 ゆわ)さん

①今回の取材記事

<生い立ち>

  • 昭和6年松伏村上赤岩で誕生。
  • 母親の後を継いで和裁・洋裁・舞踊・着付を習得し現在に至る。
  • 松伏町制30周年の折り、松伏町より表彰を受ける。

<活動>

☆舞踊  個人レッスン(水・木・土曜日) 自宅
     団体レッスン(火曜日) 赤岩農村センター
     全体で20名ほどの方々がお稽古しています。いつでも入会可能です。

☆和裁  金曜日 赤岩農村センター

☆サロン(お茶飲み会)  水曜日 赤岩農村センター

<心がけていること>

 食事、睡眠、運動(ご近所さん体操を続けている)をきっちりとること。 若い頃、和裁・洋裁の仕事が多くなり不規則な生活を送り身体を壊し入院。それからは無理をしないようにしている。

 いつお会いしても身だしなみをきちっとしていらっしゃる坂東先生です。女性なら誰しも見習いたい事ではないでしょうか。

【インタビューと記事 文化協会副会長 佐々木記】

  

②過去の「ふうしゃ」掲載記事    

 民謡民舞連合会 力喜和会を、過去文化協会機関紙「ふうしゃ」にて取材した記事がありますので転載します。
 ※内容は当時のものになります。

〇平成24年3月1日発行 「ふうしゃ第22号」 井戸端の声 より

Q:力喜和会の発足はいつですか?
A:昭和四十七年四月です。

Q:会員は何名ですか、また平均は幾つですか?
A:小学校低学年生二人を含めて、20名です。平均年齢は65才位かなぁ。

Q:民舞を始めた動機は?
A:先輩方に推められて。
A:いきいき体操をやっている仲間に民舞もやりませんかと、誘われて。

Q:ひと月何回位稽古をされますか?
A:個人の場合は月四回、団体の場合は月二回火曜に行っています。

Q:皆さんが民舞をやっていて、良かったと感じる時はどんな時ですか。
A:稽古の休憩時間に、持ち寄ったお菓子等を食べながら楽しくおしゃべりをする時。
A:介護施設に、ボランティアで踊りに行った時、又来てくださいね、と喜ばれた時。

Q:難しい所はどんな所ですか?
A:お祝いの踊りや立ったり座ったりする踊りです。

Q:稽古以外に踊ることはありますか?
A:文化協会の町民文化祭、民謡民舞の発表会、各地の介護施設に訪問の時です。

Q:踊りの流派は何流ですか?
A:坂東流です。

Q:最後に先生から一言お願いします。
A:若い人達と踊っていると良い「気」を沢山もらって元気になり、みんなと一緒に踊る時が一番楽しいので、これからも踊りを続けて行きたい。

〇平成12年6月9日発行 「ふうしゃ第8号」  サークル紹介  より

 松伏町民謡民舞連合会の民舞の力喜和会を紹介致します。
 会の指導者は坂東力喜和先生です。

 松伏町民謡民舞連合会発足より二十九年になります。
 先生が教室を始めた頃は少人数でしたが、今は先生の家の稽古場で日・月曜日を除き週五日間毎日指導をして居ります。

 又町の老人大学舞踊会の教師として忙しくしています。本当に大変です。その合間に和裁も教えている様です。

 教室で踊りを習っている人の話では、踊りは女性心の支えです。
色々な悩みを忘れて踊りに打ち込む姿を見ると本当に女性の美しさを感じます。

 そして何時迄も若さを保って元気に皆さんと踊りを習って大会や発表に向けて張切って稽古をしています。
 三地区大会、松伏町発表会、又文化祭に出場します。